「信仰」と「観光」への身勝手な願い


 寺社仏閣がもともと好きで奈良県内外の寺社仏閣によく行くことと、
祖父母が住んでいた空き家がそこそこ大きなお寺の近く、ということもあって、
「お寺・神社と観光」(ひいては「奈良における観光」)みたいなことを
つらつらと知人と話すことが時々あります。
 
先日、そんなお喋りで聞いた言葉がとても心に響きました。(意訳なので正確な言葉ではないですが)
「こないだ京都の○○寺(←国宝、大人気寺)に行ったよ。
 人がたくさん居て、賑わっていた。お寺も迫力あって良かった」
 
けど、と。
 
「あそこは観光のお寺という感じだね。
 ○○寺(←奈良県内のお寺)は観光じゃなくて、信仰の場所だと思うから、ああするのは難しいかな。」
 
なるほど、なるほど、と頷きつつ。
 
要は、土地や場所の「性質」が違うのだし、同じ「人の呼び方」は出来ない、しなくて良いんだな、と。
そんな風に自分は解釈しました。
 
「信仰」と「観光」。
もちろん、その京都のお寺が信仰を捨てていると決めつけるつもりはないし、
その二つに二分されるだけでもなく、グラデーションはあるとは思うし、
そもそも「観光より信仰が偉い」わけでもないんだけど。
 
その場所の目的として何を「軸」にするか、していきたいか、
何を目的とした場所にしていくのか、、、あたりは
寺社仏閣を使って「人を呼ぼう」とする人たちは意識して欲しいなあ・・、と思います。
 
ちょうど、そのお喋りから、1か月くらい経った頃。
とあるお寺のご住職さんがSNSで呟かれていた言葉を目にしました。(抜粋です)
今では無理な集客はやめて、情報を受け取られた方のみに参加していただくような仏事にしてゆこうという思いになりましたし、「本物を体験したいと思っている方に、本物の仏事を体験していただくため、集客のイベントとは一線引きたいと思っています。
 #ちなみに私はたまたまSNSで見つけて、
  この会に参加することが出来たのです(嬉)。
 
単に「人がたくさん集まれば良い」という話ではなくて。
「信仰だから信者にしか見せない」と閉じたものにするのでもなくて。
「本物の信仰」を見せていく、その考え方にとても感銘を受けました。
 
少なくとも私は、自分の好きな寺社仏閣は「信仰」を大事にしているであろう場所が多くて、
その「本物」に惹かれて、訪れている人たちが多いことも日ごろから感じます。
 
一方で、寺社仏閣に対して「コンテンツ」なんて言葉をやたらと使ってしてしまう人もいる。
そういう場面には疑問を感じます。
・・・言葉の使い方、おかしくないですか?と。
そこに「信仰」への敬意はあるのかしら・・胸に手をあてて考えてみてください、は言い過ぎでしょうか。
 
繰り返しますが、寺社仏閣の「観光コンテンツ」化が悪いわけではないです。
方向性はそれぞれあっていいと思うのです。
 
けど、「どういう路線でいく?」には繊細で丁寧であってほしいと思うし、
いまいま「信仰の土地」であろうとする寺社に対して、
「これからは観光でっせ!”映え”でっせ!!」と土足で踏み込むような真似は、
これ以上増えませんように、少しでも減りますように、と願います。
 
一筋縄ではいかないことなんでしょうけどね。
私の考え自体も身勝手なものなのかもしれないし。
うーん・・・色んな立場の人の話が聞きたいなあ・・・。
そんなことを考えています。

0コメント

  • 1000 / 1000