それは「PR下手」とか「宣伝不足」の類ではなくて

この秋は、ご縁あってよくお寺に行っていました。(行くことができました)

今年はよくお世話になった吉野の金峯山寺。


天皇陛下のご即位を祝う11月の5日間「出開帳」があると夏頃からホームページで見て、

なんとなく気になっていました。

気になってはいたけれど、ネットやチラシでは、正直、何が見れるのかよくわからなかった。

わからなかったけど「でも・・でもなんか気になる・・!」という衝動が抑えられなくて、現地に向かう道中でスマホを開くと。


とある敬愛する方がSNSで呟いているのを見ました。

普段は見ることができないとてもとても貴重な尊像が公開されているといいます。


「おお、まじか!? 嬉しい!! 私まさにそこ行くのです~♪」という喜びと共に、

「ということなので、是非、行ってみてください!」

そんなことをSNS拡散しようと思って、思わず、手が止まりました。


これは・・・よく分かっていない私が

「貴重なものが見れますよ♪ 是非訪れてください!」なんて

軽く拡散して良いものではないのでは・・?


その敬愛する方自身は、元々日々のお勤め・修行をされていて、その像のありがたみをきちんと理解されているので、

「心からの」喜びゆえの呟きが出来ると思う。


けど、私は・・?

その像が持つ力の本質をちゃんと理解しているとは言えないのではなかろうか。


単なるミーハー心で「ほらほら、すごそうでしょ」と広めて良いものなんだろうか。


・・・あかんな、と思った。


ちょうど、最近、「観光」と「信仰」に場の目的の違いについて考えていた、ということもあるけれど。


出開帳は、人を集めることそれ自体が目的の「イベント」・・・じゃ、ないはず、と。

しっかり下調べすることなくホームページの情報だけで

「なんとなく惹かれる」と軽い気持ちで見に行くことにした私が偉そうなことは言えはしないけど、

「珍しいもの」としてテンション高く広めてよいものじゃない気がしたので、SNSを閉じました。


金峯山寺は大好きだし、たくさんの人に知って欲しいんだけど・・

でも、なんか「ほれほれ行きましょう」な感じにしたいとは思わないんだよなあ・・・。


そんなこんなで奈良の街を歩いていたら、ふと思い至りました。

奈良は「PR不足」と言われることが多い。

「宣伝が下手だ」と本当によく見聞きします。

(まあ、奈良に限らず、特に地方は専門広報部隊を雇う予算も無いし、

 そんなに宣伝上手でないところもたくさんあるとは思うけれど)


「良いものがたくさんあるのに、意外と知られていない」

とてもよく聞きます。

(たしかに私もそう思うこともあるし・・)


けど、「多くの人に知られること」が果たして必ずしも正しいことなのかな、と、

このちょっとした出来事で、わりとじっくり考えました。


奈良のイベントはもともとお寺や神社のお祭りに由来があるものが少なくないと思う。(主観ですけど)

つまり、それは神事であり仏事であって「レジャー」ではない。

だから「よってらっしゃい見てらっしゃい♪」な「宣伝」や「PR」は

本来必要ないものだったんじゃないかな、と。

・・・想像ですけど。


祈りを捧げに、神様や仏様に御礼を言いに・・・そんな「信仰」の行事は、

声高に人を呼び込むもの、ではなくて、

「必要な人に伝わり、必要な時に行かせてもらう」場であってしかるべきなんだろうな、と思う。


もちろん、お客さんをたくさん集めたほうが良い「商売」や何かしらの「披露」の場は当然あるから、

そういうものはたくさんPRして宣伝した方がいいと思う。

奈良であろうがなかろうが。

新しく何かを始めようとする場合もコツコツとたくさんPRしたほうが良い場面はたくさんある。


けど、場の本来の目的が「信仰」なのであれば、「派手な宣伝に群がった興味本位の人」の数が増えることにあまり意味はない。

むしろ、そういうものに余計な対処のパワーを強いられて、逆効果になってしまうこと危険あえある。


しっかりとした知識や好奇心を持った人がなるべく行くことが望ましいはずで、

なので、この先も必要なのは「宣伝」ではなくて「啓発」に近いのではないかな、なんてことをつらつらと考えました。


今回の太っ腹な出開帳。

あくまでも信仰のための行事、で、それを一般にも「開放」してくれているもの、だと、思っています。


ホームページの告知は実にシンプルでした。

いたずらに集客を増やそうとして「!!」を多用した告知なんて無い。


当日行って初めて「ああ・・こんな太っ腹な場・・」ということに気づくことが出来る。

身勝手な憶測でしかないけれど、そのシンプルさは、

意識しているかどうかは知る由もないけれど、

本質を知っているからこその「敢えて」なのかもしれないな・・と妄想しました。


「宣伝不足」「PR不足」と叫ぶ人の状況はわからない。

もっとたくさんの人に知って欲しいという純粋な思いから出る文句なのかもしれない。

けど、「自分に届いていなかった」ということは、「自分はまだ必要な時じゃなかった」なだけかもしれない・・

そんな風にも思うので。


主催する側の方々が、よくわかっていない外野の「宣伝不足」「PR不足」に振り回されることなく

穏やかに着実に荒らされることなくその場を運営できて、目的を守れますように、と考えた秋のひと時でした。

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