空き家を使って「本に囲まれた空間」を作りたいな、と思いついてから早や約2年。
いまだに「ただの空き家」のまま、実現はしていないけれど、
この2年、いわゆる「間借り店主」で本屋見習いっぽい活動をしたりして、
本や書店関連の情報に触れる機会も増え、
以前に比べて明らかに「本が欲しい欲」が高まり、たくさん本を買うようになりました。
(「読みたい欲」は昔からあったけど、以前は図書館で借りる比重がもっと高かった)
結果、たくさんの「積ん読本」と一緒に暮らしています。
本屋で見かけて気になって買った『本にまつわる世界のことば』(創元社)
まえがきにこんな言葉を見つけました。
21世紀に入って英語圏にデビューした"tsundoku"ということばは、読書好きのあいだで人気の表現になりつつあります。
「積ん読」。
ほう・・・日本語圏外でも使われてるのか・・・
わたし自身、ついこないだまで、本は「読むために買う」として捉えていたので、
手持ちの「未読本」なんて無かったのに、
なんとなく自分に「積ん読」を許すようになってから、それは日々増えていっています。
せっかく買ったのだから、読みたい。
読むスピードが買うスピードに追い付かない。消化しきれない。
ああっ、どうしよう・・!
全部読み終わるまでは本を買い控えたほうがいいのだろうか、
でも、書店で「あ、これ、気になる」と思うと買ってしまう、
ああ、どうしよう。
そんなちょっとした葛藤を抱えていたある日、最近お気に入りのインターネットラジオ(オムライスラヂオ)で
「読んでいない本」について、話されているのを聴きました。(※)
(※)No.343 / 2019.10.16(水) 7:00am の「いま、人文知の拠点をつくるということ」に
収録されています。
曰く、
「書物に囲まれる暮らし」というのは
「自分が全部読んだぞ」ではなくて「読んでない、ということで自分の無知を毎日思い知らされる」ものであり、
それは「もっとも教育的な経験」なのだ、と。
「知っていることは『これだけ』」で「自分の無知を浴びるように実感」する
「知的成長にとっての素晴らしい刺激」なんだ、
と。
聴いた瞬間、「それ!」と思った。
なんて素敵な概念。
それで、いきます。いきましょう。
今までも「本に囲まれた空間」に足を踏み入れると「わくわくと絶望」という相反する2つの感情を持つことがあったけど、
そう、それなんです。
「こんなに読みたい本がある!」というわくわくする期待感と
「でも、これ、一生かかっても読み切れない・・・orz」という絶望。
でも、その絶望こそが「自分は無知である」ことを体感し、成長への刺激をもたらしてくれるものなんだな、と
ラジオの向こうで言語化してくれる人がいました。
※ちなみにラジオ内では「図書館」という文脈で話されています。
それ自体、とても面白いのでご興味ある方は是非聴いてみてください。
よし、心おきなく積ん読して、知的成長をたくさん得よう・・・!
あと、最近、自分が感じている「積ん読の楽しみ」がもう一つ。
積み重ねた本の中から出かける前に「今日読む本」を選び取る時に、
いつ買ったっけ
どこで買ったっけ
なんで買ったっけ
この時、何を考えていたっけ
を、少し思い出す。
中には正確に思い出せないものももちろんあるのだけど、
そうやってちょっとした己の人生の復習、というか振り返りをするのが、わりと楽しい。
さらに積まれたたくさんの本をざっと眺めて、
さて、今、私は何が読みたいんだろう
に思いを馳せることは、なんとなく「こころのセルフプチ健康診断」とも言うべき効果があるような気も、する。
買ったからには、読みたい。
大前提として、その気持ちは自分は捨てきれない。
紡がれた言葉を、文章を、せっかく手に入れたからにはいつかちゃんと「読みたい」と、は強く思う。
でも、「読む時間が今は無いから買わない」でなくて、
積ん読しているだけでもそれはそれでいいんだな、と、思うようになりました。
本の買い方、読み方、扱い方、、、なんて、それこそ人それぞれ。
でも、積ん読を恐れることなかれ。
読まなくても、読めなくても、それで、いい。
本の山を見るたびに自分の中に湧きおこる「わくわくと絶望」を大事にして、
自分は、これからもたくさんの本と触れ合っていきたいな、と思います。
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