「暴露本」によって救われるもの

なぜ、そんなものを書くのだろう、

なんで、わざわざ自分の私生活を切り売りしたいと思うのだろう、

お金目当てに人を傷つけるようなことを書いて恥ずかしくないんやろか・・・


いわゆる「暴露本」を書く人に対して、そんな風に思ったことがあります。

自分の好きな芸能人の暴露本が準備されている・・みたいな噂をネットで見た日にゃあ、

「そんなことしたらファンから呪われてロクな死に方しませんよ、あなた。」とか。

なんなら出版された暁には積極的に呪おうとさえ考えることもありました。


ある日、『師匠、御乱心!』という本に出会いました。


たまたま知り合った書店員さんが読んでいたことがきっかけで、

「発売当時、とても話題になった本だけど、絶版になっていて、

 最近、文庫化された本」と聞き、興味が湧きました。


落語家さんが書いた本、という点にも好奇心が刺激され、買って読んでみました。


読む前は小説か?ノンフィクションか?さえ、良くわかっていなかったけれど。


昭和53年に起こった落語会を二分した協会分裂騒動、

その渦中にいた三遊亭円丈師による当時の赤裸々な描写を読み進めるうちに

「そうか、これはいわゆる”暴露本”のジャンルなのだな」と気づきました。


いろんな落語家さんが実名で出てくる。思いっきり悪口書かれてる人もいるし。


携帯電話なんて無い時代。

あいつがああ言った、あいつは裏切っている、あいつの腹の中はこうに違いない・・・

一門の間で繰り広げられる「情報戦」の迫力ある描写はまるで映画を見ているようで、

「面白い。これは面白い」とぐいぐい引き込まれて読みました。


そして、中盤から後半にかけて、「ああ、そういうことか・・」と。


「俺は、円生を憎んではいない。円生を恨みもしない。ただ円生を許しもしない。」


この円丈さんは、こうやって「書く」ことで、傷ついた自分の心を癒やそうとしている。

「書く」ことでしか癒すことが出来なかった・・は私の想像しすぎかもしれないけれど。


親、ともいうべき愛すべき師匠に分かってもらえなかった悲しみ、

信頼してもらえなかった苦しみ、

自分を「否定」されてしまった悲しみ。


たとえ理性では、師が偉大な人であり、尊敬しなければとどんなに思ってみても、
深く傷ついた俺の心は、呪いを解こうとはしないのだ。
だから書いてる内につい非難がましくなるのは、その呪いのせいなのだ。


愛したい、許したい、でも、愛せない、許せない。

そういう「心の叫び」のようなものが胸に迫ってきました。


文庫本のあとがきに、その思いが率直さをもって綴られていました。


円生恐怖症から抜け出すのに、十年はかかった。
ようやくそこから抜け出せたのは、『御乱心』を書いたからだ。


カウンセリングの勉強をしていた時、「話す」は「放つ」とも言う、と学んだことがある。

そうか・・「書く」ことも同じ効果があるんだもんな・・・


すべての「暴露本」がそうだとは限らないとは思うけど。

出版することで誰かが嫌な思いをすることは当然あると思うんだけど、

ひとりの人間の魂を解放できるなら、そこには書かれる理由は、ある、んだろうな、と思いました。


同じ暴露本ならできればそんな、誰かが救われる本がこの先も読みたい。

(本当に「金のため!」だけに感じる雑なものはあまり読みたくないなあ、と思う。

 一概に線引きできるものではないんだろうけど。)


ちなみにこの作者は、実名を出した人には全員献本したそうな。律儀・・・


笑点に出てくるような落語家さんの名前もばんばん出てくるし、

巻末の三遊亭一門の鼎談も興味深い。

落語界に興味のある方は一読の価値ありだと思います。

何よりとても面白かったです。読書の楽しみ満喫しました。

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